第6回 第2学年 2棟27室

2棟は一室がやはり8人部屋だったが、机とベッドが対になって備えられている。これで隣の友人とは距離ができ、少し自分の世界に入れるようになった。
なんといっても寮生活で良かったのは、大きな風呂に入れること。仲間と一緒に裸の付き合いができる。しかし、最初は悲惨な洗礼が待っていた。「インキン」にやられたのである。授業中もかゆくて仕方がない。父親からヨードチンキが送られてきたので塗ってみたら、ヒリヒリして一晩寝られなかった。それもいつのまにか免疫になり、風呂の楽しみは倍増した。
6月8日(土)から9日(日)まで第4回寮祭があった。1年生の時は、内向的な自分が祭りへの興味を失わせていた。だから2年生になってからの祭りは面白かった。友人の相撲を応援したり、食堂での軽音楽に耳を傾けた。
私達が、ことのほか待ち遠しいのが彼女からの手紙。何しろ男ばかりのむさくるしい世界。外出と外泊が月に一度ずつ許可されていたが、都心に出た時など女性がみな光って輝いて見えたものだ。
だから授業が終わると急いで寮棟に帰り、舎監室前にある各室の郵便受けをのぞく。来ていないと失望の色は隠せない。中には、わざと女子の偽名を使って出すやつがいて、友人をからかって喜ぶやつもいる。
22 テストなどは、勉強したやつができるのは当たり前。カンニングなどはしなかった。してもたかがしれている。衆人環視の生活でそんなことをしても得することはない。
秋川高校が三宅島の小中高校生を受け入れたとき、新聞やテレビなどで秋川高校の名がよく出るようになった。
しかし、もともと私達同期には、伊豆七島から入学してきた友人が何人もいた。夏休みに大島に遊びに行ったときは、1年の時同室だった中江智明君の実家でお世話になった。大島の三原山噴火のときは心配したものである。私達にはとっては、伊豆七島への心情に特別のものがあった。
9月28日(土)から29日(日)まで第4回文化祭が行われた。私は新聞部に入っていたので、「文化祭特集」を作ることにした。新聞部の歴史といっても、学校が4年しか経っていないし、先輩もそれほど経験があるわけではない。活字の大きさが何号かということも本を読んで覚えた。
その特集を作る中でわかってきたことがあった。教室と寮が結ばれている生活は、どこまでが学習で私的な勉強かがはっきりしないということである。私が1年生の時に悩んだのも、そうしたことに原因があったと思う。つまり内と外がないのだ。
だから文化祭でも、研究発表に深みがなかったりしてくる。とことん戦うという討論が成立しにくく、ある程度のところでまとめてしまう、ということがあったように思うのだ。
協調性と独自性とは相容れ難い。ましてや「生活の場」が公と混在しているとなれば、どうなろうか。人間とはそんなに器用に、おりこうさんにはなれない。まだ10代後半ならば、なおさらだ。
寮室には食べ物を持ち込んではいけなかった。だから、夜には五日市から蕎麦屋さんが食堂に出店を開いていた。そこでうどんやラーメンを食べた。
寮長は室長会議で学校側に規則の改善を要求したりしていたようだが、私にはそういうことには関心がなかった。規則があれば適当に合わせればいい、建前はそれとして、こちらは適当に遊ぼうと割り切りはじめていた。あのうどんの味が、今でも忘れられない。
この頃、夢中になって読んだ本が、北杜夫の『どくとるマンボウ青春記』。本の見返しに昭和43年11月10日購入とある。
旧制高校に漠然と憧れて入った秋川高校だったが、現実はちがっていた。北杜夫氏が松本高校で体験するバンカラなものは、ほとんどなかった。先輩たちとの交流もないし、同期でさえクラスがちがえば、あまり話すこともなかった。私達の頃は、クラスメイトが同室になっていたからだ。これが1年生から3年生まで一室に入っていれば、かなりちがっていただろう。
世代と価値観の相違が生み出す共同生活なら、案外北杜夫的青春記があり得たのかもしれないが。それでも私は、自己流に楽しむ旧制高校的青春ができないものかと考えはじめていた。

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