第7回 第3学年 3棟17室

3棟はベッドが2段になり、両脇に机が置かれていた。カーテンを閉めると個室のようになった。私は、この3年生の時が一番楽しかった。同室の8人一人ひとりが、当時のまま思い出に残っている。
秋川高校が全寮制であるのは、目的として「都民である保護者が勤務の都合等により一時都を離れたため、保護者と別れて生活しなければならない子弟のために高等学校教育の場を提供し…」となっている。この枠はかなり広範に解釈され実行されていたが、海外などに行っていたため、日本での再教育を受けるための教育機関としても役立てられていた。
3 金子成人君もその1人。海外にいたので英語が抜群にできた。私は英語をずいぶん教えてもらった。アメフトが好きで、寮棟の前の広場でボールを投げて遊んだ。
私達が、学校群制度になって初めての都立高校入試だったが、私が英語の100点をとって喜んでいると、秋川に合格した仲間の70人が100点をとっていると聞かされてショックを受けた。
ましてや、金子君のような人がいたら、これはもうかなわない。
児玉守夫君は、新宿区立戸山中学3年のときのクラスメイト。まさか高校3年でも同室になろうとは思わなかった。文庫本を読み漁っていた。ギターを弾くダンディーな友人である。
村田里文君とは2年生の時に新聞部で知り合った。一番話し合った友人だ。ある夜、私に彼女からしばらく手紙が来なかったので「会いたいなー、ほんのちょっとでも近くに行けたらなー」というと、村田君がこれから彼女のところへ行こうと言い出した。そろそろ就寝時間になろうとしていたので、消灯してから2人でそっと寮を抜け出した。ただ街灯がポツンポツンとある暗い道をひたすら歩いた。拝島まで来るとさすがに疲れてきた。それでもまだ先へと立川に着いたが、電車はすでになく地下道で夜を明かすことにした。
7 彼女の家は新宿区の戸山が原にあった。さすがにそこまでは行けない。始発で戻らねばならなかった。私は満足していた。村田君の友情が身に沁みたからである。2人は朝点呼にぎりぎり潜り込んだ。
寺島龍史君はジョン・レノンが好きで、自らもその雰囲気をかもし出していた。
いつだったか、私が外泊から帰ると「鵜飼のいない部屋は静かで、勉強がはかどるよ」といわれた。そんなに俺は騒がしくしていたのかと反省するが、それも長くは続かなかった。卒業してから一度も会っていない。やはり私が原因なのだろうか。
古谷章君は新聞が好きで、朝日新聞の「かたえくぼ」に投稿したのが載ったと喜んでいた。彼は春菊が食事に何度も出てくるので頭にきていた。それで「春闘委」と称してプラカードを作り、「春菊は飽きた。もう春菊は出すな」と一人叫んで、渡り廊下を歩いていた。彼はいま同窓会の副会長である。
高橋進君には、「インスタントラーメンにコロッケを入れると美味いぞ」と教わった。
寮棟には相変わらず食べ物は持ち込めなかったので、夜は腹がすいて仕方がない。それで重宝したのがインスタントラーメンだった。
8 まずタッパーウエアに即席ラーメンの麺を入れ、熱湯を注いで布団の中でしばらく温めて麺を軟らかくする。それからお湯を捨てて、今度は粉末スープを入れ熱湯を注いで食べる。よくカッパえびせんを一緒に入れたが、コロッケの味は格別だった。カップヌードルがまだなかった頃の話。最後は洗剤を入れてシェイクすればきれいになるが、臭いが染みついてしまい、それ以外には使えない。
荒雅敏君とは、こっそり八王子のミュージックホールへ行った。お互いに大人の風を見せかけるために、サングラスをしたりしてストリップ劇場へ入った。そんなのはすぐに見破られるはずだが、大丈夫だった。寮に帰ると、友達に頭から水をかけられた。私の家から電話があり、鵜飼はいま風呂に行っているということになっていたのだ。タオルで頭をふきふき舎監室へ向かった。
10 ある時、ロッカー室から少し煙が出ているので、ドアを開けると荒君が倒れている。ハイライトをいっぺんに4本吸ったら気持ちが悪くなったというのだ。
17室では、夜の点呼後カーテンを閉めて、酒盛りをよくやった。私はよく遊び、ちょっと勉強した。
夏休みは寮に戻って勉強すると家族にはいっていたが、実際には自分の時間をうまく使って遊ぶのが目的だった。寮には数人の仲間しかいなかった。そこで私は、酒はどのくらい飲むと酔うのか試そうと思った。ウィスキーの赤ラベルを買ってきて、夜こっそりとのみ始めた。なんにも割らず、そのまま顔をしかめながら、1時間ほどで1本呑んでしまった。
すぐに目の前がクラクラし始め、ベッドの上段へ潜り込んだが、仰向けになると胃が痙攣して口から噴水のようにもどしてしまった。下でバチバチと吐いたものが落ちる音がした。後は記憶がない。朝の点呼には出られず、金子君がかばってくれて先生にはばれずにすんだ。シーツは交換されて回収されるが、汚れて酒臭いからよーく洗濯して出した。
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こんなことばかりだと、まるで勉強していなかったようだが、英語と国語と社会(世界史)だけは基礎学力を維持することを心がけた。一浪したら、大学に入れるだけのことはしておくつもりだったからだ。現役で大学合格などは、考えてもいなかったが、ほかの友人たちは結構現役で合格している。

もうすぐ卒業という時、3年生のこの1年があっという間に過ぎ去っていっただけに、なんとも複雑な感慨をもった。1棟からここまでやっと辿り着いた今、17室の仲間たちとは去りがたく別れがたい。卒業式の前日、最後の夜を決して忘れまいと目を閉じた。
昭和45年3月15日(日)第3回卒業式、卒業生232名。この日も快晴だった。

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