カテゴリー別アーカイブ: 事務所の窓から

第8回 永遠に残れり秋川に

パレスホテル立川で、「同窓会惜別の会」をどのように運営するか式次第を考えながら、私には必ずやりたいことがあった。それは、最後の卒業生である34期生を、会場の皆で送りたいということだ。
彼ら44人は、卒業式に教職員、父母だけの寮歌で見送られた。私達は、在校生450人近くに送られている。
「惜別の会」に壇上に上がったのは34期生全員ではなかったが、制服で参加した彼らに盛大な拍手が送られた。
同窓会会長の矢野耕二氏(2期生)は、「最後に三宅島の生徒の力になれてよかった。この自然と寮生活の思い出を三宅島の生徒たちと共有できたのは幸せです」と語った。
12期生による朝点呼、13期生有志の秋川体操、応援歌斉唱などイベントが続き、「閉会の言葉」で 古谷章君(3期生)が「廃校を決めた者を、ここに呼んで胴上げして、床に叩き落としたい」「過去は美化されがちだが、よかったこと悪かったことを総括すべきだ」と締めくくった。
全寮制高校の失敗が、秋川高校の閉校になったのは事実だが、果たして全寮制教育が失敗だったのだろうか。
私は「開会の言葉で」で「母校はなくなっても、同窓会という母港は残る。錨を降ろしてたまには遊びに来いよ」と呼びかけた。
これからの全寮制高校がいかにあるべきかの理念や教育目標は、それを真に体験し経験を積み重ねた者たちの声を聞いて、掲げられるべきであろう。
それも青春期をそこで過した生徒たちのいつわらざる声を。全寮制秋川高校の真価が問われるのは、実は同窓生たちの今後の生き方そのものにあるのではなかろうか。
「同窓会惜別の会」の最後は、やはり玉成寮寮歌の合唱である。肩を組み、教職員と生徒が声を限りに歌った。
「契りし友と 咲かす花 嵐狂へど 散り舞へど 深き心の あればこそ永遠(とわ)に残れり 秋川に」

惜別の会
追記  (惜しいかな、児玉君は2013年6月1日に逝去されました。)

第7回 第3学年 3棟17室

3棟はベッドが2段になり、両脇に机が置かれていた。カーテンを閉めると個室のようになった。私は、この3年生の時が一番楽しかった。同室の8人一人ひとりが、当時のまま思い出に残っている。
秋川高校が全寮制であるのは、目的として「都民である保護者が勤務の都合等により一時都を離れたため、保護者と別れて生活しなければならない子弟のために高等学校教育の場を提供し…」となっている。この枠はかなり広範に解釈され実行されていたが、海外などに行っていたため、日本での再教育を受けるための教育機関としても役立てられていた。
3 金子成人君もその1人。海外にいたので英語が抜群にできた。私は英語をずいぶん教えてもらった。アメフトが好きで、寮棟の前の広場でボールを投げて遊んだ。
私達が、学校群制度になって初めての都立高校入試だったが、私が英語の100点をとって喜んでいると、秋川に合格した仲間の70人が100点をとっていると聞かされてショックを受けた。
ましてや、金子君のような人がいたら、これはもうかなわない。
児玉守夫君は、新宿区立戸山中学3年のときのクラスメイト。まさか高校3年でも同室になろうとは思わなかった。文庫本を読み漁っていた。ギターを弾くダンディーな友人である。
村田里文君とは2年生の時に新聞部で知り合った。一番話し合った友人だ。ある夜、私に彼女からしばらく手紙が来なかったので「会いたいなー、ほんのちょっとでも近くに行けたらなー」というと、村田君がこれから彼女のところへ行こうと言い出した。そろそろ就寝時間になろうとしていたので、消灯してから2人でそっと寮を抜け出した。ただ街灯がポツンポツンとある暗い道をひたすら歩いた。拝島まで来るとさすがに疲れてきた。それでもまだ先へと立川に着いたが、電車はすでになく地下道で夜を明かすことにした。
7 彼女の家は新宿区の戸山が原にあった。さすがにそこまでは行けない。始発で戻らねばならなかった。私は満足していた。村田君の友情が身に沁みたからである。2人は朝点呼にぎりぎり潜り込んだ。
寺島龍史君はジョン・レノンが好きで、自らもその雰囲気をかもし出していた。
いつだったか、私が外泊から帰ると「鵜飼のいない部屋は静かで、勉強がはかどるよ」といわれた。そんなに俺は騒がしくしていたのかと反省するが、それも長くは続かなかった。卒業してから一度も会っていない。やはり私が原因なのだろうか。
古谷章君は新聞が好きで、朝日新聞の「かたえくぼ」に投稿したのが載ったと喜んでいた。彼は春菊が食事に何度も出てくるので頭にきていた。それで「春闘委」と称してプラカードを作り、「春菊は飽きた。もう春菊は出すな」と一人叫んで、渡り廊下を歩いていた。彼はいま同窓会の副会長である。
高橋進君には、「インスタントラーメンにコロッケを入れると美味いぞ」と教わった。
寮棟には相変わらず食べ物は持ち込めなかったので、夜は腹がすいて仕方がない。それで重宝したのがインスタントラーメンだった。
8 まずタッパーウエアに即席ラーメンの麺を入れ、熱湯を注いで布団の中でしばらく温めて麺を軟らかくする。それからお湯を捨てて、今度は粉末スープを入れ熱湯を注いで食べる。よくカッパえびせんを一緒に入れたが、コロッケの味は格別だった。カップヌードルがまだなかった頃の話。最後は洗剤を入れてシェイクすればきれいになるが、臭いが染みついてしまい、それ以外には使えない。
荒雅敏君とは、こっそり八王子のミュージックホールへ行った。お互いに大人の風を見せかけるために、サングラスをしたりしてストリップ劇場へ入った。そんなのはすぐに見破られるはずだが、大丈夫だった。寮に帰ると、友達に頭から水をかけられた。私の家から電話があり、鵜飼はいま風呂に行っているということになっていたのだ。タオルで頭をふきふき舎監室へ向かった。
10 ある時、ロッカー室から少し煙が出ているので、ドアを開けると荒君が倒れている。ハイライトをいっぺんに4本吸ったら気持ちが悪くなったというのだ。
17室では、夜の点呼後カーテンを閉めて、酒盛りをよくやった。私はよく遊び、ちょっと勉強した。
夏休みは寮に戻って勉強すると家族にはいっていたが、実際には自分の時間をうまく使って遊ぶのが目的だった。寮には数人の仲間しかいなかった。そこで私は、酒はどのくらい飲むと酔うのか試そうと思った。ウィスキーの赤ラベルを買ってきて、夜こっそりとのみ始めた。なんにも割らず、そのまま顔をしかめながら、1時間ほどで1本呑んでしまった。
すぐに目の前がクラクラし始め、ベッドの上段へ潜り込んだが、仰向けになると胃が痙攣して口から噴水のようにもどしてしまった。下でバチバチと吐いたものが落ちる音がした。後は記憶がない。朝の点呼には出られず、金子君がかばってくれて先生にはばれずにすんだ。シーツは交換されて回収されるが、汚れて酒臭いからよーく洗濯して出した。
43

45

こんなことばかりだと、まるで勉強していなかったようだが、英語と国語と社会(世界史)だけは基礎学力を維持することを心がけた。一浪したら、大学に入れるだけのことはしておくつもりだったからだ。現役で大学合格などは、考えてもいなかったが、ほかの友人たちは結構現役で合格している。

もうすぐ卒業という時、3年生のこの1年があっという間に過ぎ去っていっただけに、なんとも複雑な感慨をもった。1棟からここまでやっと辿り着いた今、17室の仲間たちとは去りがたく別れがたい。卒業式の前日、最後の夜を決して忘れまいと目を閉じた。
昭和45年3月15日(日)第3回卒業式、卒業生232名。この日も快晴だった。

11

第6回 第2学年 2棟27室

2棟は一室がやはり8人部屋だったが、机とベッドが対になって備えられている。これで隣の友人とは距離ができ、少し自分の世界に入れるようになった。
なんといっても寮生活で良かったのは、大きな風呂に入れること。仲間と一緒に裸の付き合いができる。しかし、最初は悲惨な洗礼が待っていた。「インキン」にやられたのである。授業中もかゆくて仕方がない。父親からヨードチンキが送られてきたので塗ってみたら、ヒリヒリして一晩寝られなかった。それもいつのまにか免疫になり、風呂の楽しみは倍増した。
6月8日(土)から9日(日)まで第4回寮祭があった。1年生の時は、内向的な自分が祭りへの興味を失わせていた。だから2年生になってからの祭りは面白かった。友人の相撲を応援したり、食堂での軽音楽に耳を傾けた。
私達が、ことのほか待ち遠しいのが彼女からの手紙。何しろ男ばかりのむさくるしい世界。外出と外泊が月に一度ずつ許可されていたが、都心に出た時など女性がみな光って輝いて見えたものだ。
だから授業が終わると急いで寮棟に帰り、舎監室前にある各室の郵便受けをのぞく。来ていないと失望の色は隠せない。中には、わざと女子の偽名を使って出すやつがいて、友人をからかって喜ぶやつもいる。
22 テストなどは、勉強したやつができるのは当たり前。カンニングなどはしなかった。してもたかがしれている。衆人環視の生活でそんなことをしても得することはない。
秋川高校が三宅島の小中高校生を受け入れたとき、新聞やテレビなどで秋川高校の名がよく出るようになった。
しかし、もともと私達同期には、伊豆七島から入学してきた友人が何人もいた。夏休みに大島に遊びに行ったときは、1年の時同室だった中江智明君の実家でお世話になった。大島の三原山噴火のときは心配したものである。私達にはとっては、伊豆七島への心情に特別のものがあった。
9月28日(土)から29日(日)まで第4回文化祭が行われた。私は新聞部に入っていたので、「文化祭特集」を作ることにした。新聞部の歴史といっても、学校が4年しか経っていないし、先輩もそれほど経験があるわけではない。活字の大きさが何号かということも本を読んで覚えた。
その特集を作る中でわかってきたことがあった。教室と寮が結ばれている生活は、どこまでが学習で私的な勉強かがはっきりしないということである。私が1年生の時に悩んだのも、そうしたことに原因があったと思う。つまり内と外がないのだ。
だから文化祭でも、研究発表に深みがなかったりしてくる。とことん戦うという討論が成立しにくく、ある程度のところでまとめてしまう、ということがあったように思うのだ。
協調性と独自性とは相容れ難い。ましてや「生活の場」が公と混在しているとなれば、どうなろうか。人間とはそんなに器用に、おりこうさんにはなれない。まだ10代後半ならば、なおさらだ。
寮室には食べ物を持ち込んではいけなかった。だから、夜には五日市から蕎麦屋さんが食堂に出店を開いていた。そこでうどんやラーメンを食べた。
寮長は室長会議で学校側に規則の改善を要求したりしていたようだが、私にはそういうことには関心がなかった。規則があれば適当に合わせればいい、建前はそれとして、こちらは適当に遊ぼうと割り切りはじめていた。あのうどんの味が、今でも忘れられない。
この頃、夢中になって読んだ本が、北杜夫の『どくとるマンボウ青春記』。本の見返しに昭和43年11月10日購入とある。
旧制高校に漠然と憧れて入った秋川高校だったが、現実はちがっていた。北杜夫氏が松本高校で体験するバンカラなものは、ほとんどなかった。先輩たちとの交流もないし、同期でさえクラスがちがえば、あまり話すこともなかった。私達の頃は、クラスメイトが同室になっていたからだ。これが1年生から3年生まで一室に入っていれば、かなりちがっていただろう。
世代と価値観の相違が生み出す共同生活なら、案外北杜夫的青春記があり得たのかもしれないが。それでも私は、自己流に楽しむ旧制高校的青春ができないものかと考えはじめていた。

54

第5回 第1学年 1棟31室(3)

校章にデザインされた葉は、このメタセコイアである。メタセコイアは「その生命力は雑草のごとくおう盛であり、その心は天使のごとく清らかである」と西洋のことわざに賛辞されている。
kousho 秋川高校の教育目標として「数千万年の長く厳しい自然の試練に耐えて、たくましく生長してきたおう盛な生命力とそのすばらしい成長力にあこがれ…」校樹と定めたのだそうである。
年が明けて、3月2日(土)第2回クロスカントリーがあった。秋川を越えて山道に入り、網代から学校に戻る全12kmのコース。
私は、授業が終わると1人でこのコースを何回も走っていた。走っている時に、いろいろなことを考えるのが楽しかったからだ。クロスカントリーの結果は、19位でタイムは55分43秒だった。もうすぐ1年生が終ろうとしていたこの頃からだろうか、秋川高校という学校の生徒としてやっていけそうな気がしてきたのは。

1年A組全員集合

1年A組全員集合

第4回 第1学年 1棟31室(2)

最初の夜は、食堂で先輩たちに紹介された。テーブルには米飯の赤飯と、お頭付きの小さな焼き魚が置かれていたように思う。大食堂でいっせいに食事をするというのが、あっけにとられて、うまいもまずいもなかった。

入学当時の秋川高校正門

入学当時の秋川高校正門

「なんで俺はこんなところへ来たのだろう」と悔やむが、後の祭りだ。ただ校旗掲揚をした旗が、風に揺れるのを眺めるだけ。
私は、すぐにホームシックにかかった。1人きりになれる時間がないのが辛かった。同室の仲間とはうまくいっていたが、わがままは許されない。それが共同生活だ。
中学時代には学級委員などして多少なりともリーダーシップをとってきたつもりだった自分が、ここではもっと優秀な人物がいることを実感し、自信をなくしてしまったことにもよる。
私は1人になりたくて、夜の学習時間に寮棟の屋上に行った。遠くに五日市線が車窓の明かりを流して走って行く。拝島から先は立川、もっと先には新宿のわが家がある。ただひたすら帰りたかった、そして無性に哀しかった。すぐ前の2棟では2年生の先輩たちが勉強している。2棟から3棟まで移動するこれからの年月が、はるかかなたに思われた。
学校から生徒には『自由と規律―イギリスの学校生活―』池田潔著(岩波新書)が配られていた。
しかし当時の私にはむずかしく、読んでも頭には入らなかった。学校はこれを手本として教育したかったのだろうが、高遠なる理想と理念が先走りしすぎていたように感じる。 今改めて読めば「イギリス人の着実な気風は、幼少の時から運動競技を通じて養成される。『自分の役割を満足に務める』という句がよく使われるが、これこそ彼等の理想とする境地であろう。」「『如何なる』ではなく『如何に』仕事をするかが問題なのである。」といったくだりに感銘されるのであるが。
スポーツマンシップとは何かということを考える昨今ではある。あの頃もう少し教師と、このようなことを話し合える環境がほしかった。
冬はボイラー室からのスチーム暖房で「カン、カン」と音が鳴る。私の楽しみは、11時の消灯後ベッドで布団をかぶり、懐中電灯で本を読むことだった。
11月10日(火)の開校記念日に、1期生がメタセコイアをメインストリート沿いに定植した。高さ2mほどの、細い枝ぶりの木が立ち並んだ。それはまるで当時の自分を象徴しているかのように弱々しかった。

メインストリートにメタセコイアが並ぶ

メインストリートにメタセコイアが並ぶ

第3回 第1学年 1棟31室(1)

03-2

31室の机で予習中

戸山中学のクラスメイトで「秋川高校一問一答」という小冊子を持っているのがいた。「ちょっと貸してくれよ」といって家に持って帰り、父親に見せた。するとおやじが「高校は全寮制がいい」といいだした。私だっておぼろげながら旧制高校のバンカラなイメージに憧れ、他の連中とは変った高校生活をしてみたかったには違いないが、どうしたらいいか迷ったので相談したのだった。
しかしことは即決された。こうなれば私も男だ「行くぞ」と決意を新たに受験した。
 秋川高校の開校は昭和40年である。当時の東京都教育長小尾乕雄氏により全寮制高校の必要性が提唱され、戦後唯一の公立全寮制高校が具体化された。
 教育目標は「心身ともに健康でたくましく、たえず自己の向上に努力し、社会の発展と日本文化の創造に寄与できる自主独立の人材を育成する。」とある。

私が入学したのは昭和42年で、この年の新入生は233名。これで高校はようやく3学年がそろった。校長は井上義夫氏だった。
4月8日(土)の入学・入寮式の日は、晴れ渡った青空が強烈な印象として残っている。真新しい教室に自分の名前を見つけ、何やらこれからの期待と不安が入り混じった複雑な心境で、うれしさとは違ったものだった。

寮は玉成寮といって、第1棟から第3棟まであり、それぞれ学年ごとになっている。寮名は東京大学の宇野精一教授による。「玉」は西多摩の「多摩」に通じ、かつ、玉のように立派な人物を育てるということからきている。

戸山中学から秋川高校に入学した仲間たち(渡り廊下にて)

戸山中学から秋川高校に入学した仲間たち(渡り廊下にて)

私は第1棟の31室に入った。1室が8人部屋で4人ずつに区切られ、勉強机とベッドが分かれて備えられている。

第2回 メタセコイアのたくましさに圧倒されて(2)

式典が始まるまで、教室棟へ足を向けた。「そうか、ときどき夢に見る教室がこれだったのか」長細く連なる教室棟が、たまに出てくる夢の中の舞台だったのには驚いた。

monyument 食堂棟、管理棟、保健棟などに当時の印象があった。私達が2年の時に成富恵一君がデザインして造られたモニュメントは健在だ。しかし、なんといっても寮棟が新しくなっているので、30数年前の時代に帰りようがなかった。浴室棟もなくなっている。今は各寮棟に風呂がある。教室と寮とを結ぶ「渡り廊下」も、もうない。
「閉校式典」の後「記念行事・秋川高校の36年を振り返る」が催された。
初代舎監長・木村勇三氏は、廃校を聞かされた時「終戦の時以来のショックだった」と語った。
かつてテレビで特集された秋川高校の映像が流れ、写真で見る第1期生からの学校生活のアンソロジーが続く。最後の卒業生34期生の音頭により、寮歌を合唱して終った。この時に、すでに気分は高校時代に戻っていた。

夜の「同窓会惜別の会」は、立川市にあるパレスホテル立川で行なわれた。2週間前に同窓会主体でやることになり、同窓生達があわただしく準備をした。即製のスタッフでも大事なくできたのは、やはり共同生活の仲間ゆえと思う。
現旧教職員などを含み636人が集まった会場は、熱気にあふれた。各期生たちが壇上で記念撮影に興ずるなど、旧友や教師たちとの再会にしばし時を忘れた。あの顔、この顔、頭は白くなり薄くなっても笑顔に面影がある。声にあの頃がある。そう…寮室で話し合った私がいる。party

tree

第1回 メタセコイアのたくましさに圧倒されて

最初のページに美しい夕日の写真を提供してくれた小江一男さんは、「因島自由大学」の仲間です。因島で生まれて育った小江さんやその友人たちとの交流については、改めて書くことにします。
まずみなさんに読んでもらいたいのは、ぼくの高校時代のことです。青春期を全寮制で過した経験を書いてみました。

tree 公立の全寮制高校―都立秋川高校が、36年間の歴史に幕を降ろした。起床ラッパで始まり、就寝ラッパで終わる日課の中で結ばれた友情は、いまでも続いている。母校はなくなっても思い出は残る。私が第3期生として草創期に学んだ、全寮制生活での青春を、今ここによみがえらせたい。

平成13年3月10日の土曜日に、秋川高校で「閉校式典」が午後1時から行なわれた。
私は同窓会の幹事なので、午前中に学校へ出かけた。卒業してから10年後に一度訪ねたが、それからでも20年の歳月が過ぎている。

立川駅から五日市線に乗って見た窓外の景色は、一変していた。西秋留といった駅は秋川駅に変わっている。駅周辺にも昔の面影はほとんどなかった。purat
高校のほうへ歩いて行くと、遠くにメタセコイアの頭がヒョッコリ見えた。線路を横切りしばらくして校門に着くと、写真でしか見たことのなかった大きなメタセコイアの並木道が、メインストリートになっている。一歩一歩踏みしめるように歩いた。あの頃、背丈の倍ほどしかなかった、これが同じメタセコイアなのだろうか。

sun

青春のパンセ

「パピルス号」へ遊びにきてくださってありがとう。
船長のうかいきよしが「航海日誌」を綴ります。
日々の移り変わりを軸にしながらのエッセイです。
どうかおつきあいください。

 2003・10・24

果てしなく広がる海原に、この惑星が時を刻んだ鼓動を聞くとき、くりかえす潮騒のささやきが、豊潤な未来への語り部として、天空に輝く星たちとともに、去り行く流れのなかにあります。

孤島に身を寄せてしばし佇めば、空をゆく鳥たちが迎えてくれます。

いまも瞼のなかには、空を、雲を、真っ赤に染めて、水平線に沈む太陽の輝きを見ることができます。その饒舌な交響曲のあとにのこされた、一瞬間の沈黙が、宙に浮かぶ月光を便りに、永遠の生命を授けてくれるのです。

sun

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

第3話 『スイッチ』

先ほどまで、古くからの友人たちとビールを飲みながら四方山話をしていた。話はいたるところに飛び、収拾のつかないことになったが、それぞれがオーバーヒートするぐらい熱くなっておしゃべりに興じていた。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA スイッチが、オンオフの装置であることは、日々電灯を点けたり消したりすることで自明のものだが、パソコンのキーボードを打ちながら、あるいはマウスを操作しながら、キーボードのキーやマウスをある種のスイッチと考えることは、ほとんどないに等しいのではないのだろうか。スイッチには、押しボタンスイッチもあれば、ボリューム、スライド、多方向スイッチがあり、あるいは圧力スイッチ、近接スイッチ等のようなものもある。それぞれが、それ独自の用途がありさまざまなところに使われている。

友人たちとのおしゃべりは、さまざまなスイッチが錯綜(さくそう)する迷路のようなもののなかにはまり込んだような輻輳(ふくそう)した時間の流れのうちに過ぎていった。

今日はもう遅い。このまま寝て、明日にはルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』(いろいろな出版社版あり)でも読んで、「時間のゆがみ」にでも興じよう。